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日本の政治改革が向かうべき方向

現状について

 小泉政権発足以来状況は多少変わっているかも知れないが、少なくとも現在の日本の政治が明らかにうまく行っていると思う人はほとんどいないだろう。
この点は大前提としておく。
その上で、なにが悪いかというと、官僚主導による政治とか政治家のモラル低下とか色々直接的な要因はあるだろう。
しかし、まとめていくと一次要因としてはまず政治家が悪い。
憲法や法律の上では、別に官僚や企業を政治家が守る必要はないのだし官僚の行動を監視し指導するのも行政権のトップである内閣(必ずしも政治家とは限らないが基本的には政治家と考えて良いだろう)の責任といえる。

 しかし、ここで政治家の上にはなにもないのかと言うとそうではない。
政治家は全て選挙に当選しなければ議員にはなれない。
内閣は議員だけからなるわけではないが、議会の議席配分によって人選はある程度決まってくるので同じ様なものであろう。
まあ、ごく一部議員でなくとも政界に強い影響を与える人物もいないことはないが、そう言った人もほとんどの場合は議員経験があるからこそ影響力を持っていると言えるだろう。
司法についても、最高裁裁判官の信任投票が行われている。
つまり、結局は我々国民の責任であると言うことになる。
かといって、全てが国民の責任というわけではなく、選挙制度の欠陥や情報の隠匿/非公開によって国民が正常に判断を下せない場合も多々ある。

 と言うことで、基本的には制度の問題国民意識の問題に大別される。
以下、その2点に的を絞って解決策を述べていく。


国民意識の問題

 いくら制度を変えたところで、最終的に物を言うのはやはり国民の政治意識である。
民主主義である限り、この原則は変わらないだろう。

 現状では日本の有権者層は全体的なレベルとして(悲しいことであるが)「愚」であると言わざるを得ない。
ちなみに、ここで「愚」であるというのはなにもバカだとか知識がないと言う意味ではない。
姿勢というか努力というかそう言った物が不足していると思う。
政治にたいして不満を持ってはいても「自分が何かしたところでどうせなにも変わらない」とか「そのうちどっかの誰かが何とかしてくれる」と言うようなきわめて消極的な姿勢を持つ人がかなり多い。
なぜこのようになってしまったのかを考えると、まず思いつくのは“政治に国民の意見が反映されにくい構造になっている”という実体だろう。
私も、少し前まではそれが大きな要因であって、その要因さえ取り除けば変わると思っていたのだが、最近はそうではないのではないかと思っている。

 ここで、私がそのように考えを改めたきっかけを挙げておく。
私の会社の労働組合は、各職場を代表する委員と選挙で選出される執行部からなっている。
春闘での要求項目などは、執行部が草案を作り全委員を集めた総会で意見を採り入れて決定する。
この方法は一般従業員の意見が入る余地があまりなく現在の国政のような形態である。
そのため、私の周りでは「組合は従業員の意見とかけ離れた行動をとっている」という不満をよく耳にした。
私自身もそう思っていたので、機会がある度に執行部にたいして「もっと一般から広く直接的に意見を募集したらどうか」と訴え続けてきた。
そういう訴えかけはそれなりに他からもあったようで、その結果執行部も近年になって春闘などでの要求項目を無記名アンケート形式で直接募集するようになった。
これで、自分達の意見が直接伝わるようになったと安心したが、私の周囲では相変わらず同じような不満(というか既に愚痴と化している)をまだ耳にするのである。
「不満があるのならアンケートには書いたのか?」と聞いても「どうせあんなのに書いてもなにも変わらない」というような事をまだ言っている。
実際、アンケートで集まった意見はかなり要求に盛り込まれるようになっているし、アンケートに数行書き込んで、それを箱に入れるだけなのにこの有様である。
結局、そう言った人々は他力本願で自分で何かしようという気は(配られた紙に数行自分の意見を書く努力すら)ないのだと言うことを悟った。また、そう言った人々は想像以上に多い。

 この事があってから、日本人は基本的に改革のために努力するという事自体をほとんどしない国民であるのではないかと思うようになった。
日本は歴史的影響(民衆による革命のような物を経験していない)もあって、未だに封建的/押しつけ的な教育が行われている。
教師や親は絶対であって、子供は無条件に従うのが最良とされ、物事を押しつけるようにしか教えない。
こういった教育環境が、日本人のこのような性質(不満があっても上の物に従う/そのうち誰かが何とかしてくれると期待する)を生み出しているのではないかと思える。
詳しいことは“教育改革”の方で説明するとして、ここでは「ではどういう状態が理想的か」と言うことを書いておく。

 民主主義を効率よく運営するためには以下の3つの条件が必要だと思う。

この条件を満たすためには前述したように制度の改革も重要だが、それにもましてそう言った姿勢を国民が持つことが大切である。
つまり、人的には“ある程度の知識を保有し、自主的に情報を入手・自分なりに考察し、機会があれば積極的に自分の意見を発言する”という状態になるべきであろう。


制度の問題

 政治制度の見直しとしてまず思いつくのは直接政治の導入だろう。
確かに、現在の間接政治は政治家が腐っているために地に落ちている。
しかし、直接政治が果たして万能だろうか?
私はそうは思わない。

  国政というのは、荒れ地を進んでいくことに似ている。
当然、道路もなく至る所に崖やら穴やらがあり、挙げ句の果てには落とし穴やブービートラップまであるような状況だ。
こういった状況で効率よく前に進んでいくためにはどの様な乗り物が良いだろうか?
モトクロスバイクと馬が用意されているとすると、乗り手がプロ級の腕前と地形にたいする詳しい知識を持っているのならばバイクの方が良いだろう。
しかし、乗り手がバイクにも馬にも一応乗れるという程度で地形にも詳しくないとしたら、その土地で十分な訓練を受けた馬に乗る方がおそらく安全である。
馬ならば乗り手が知らない崖や気付かない穴もきちんとよけて進んでくれるが、バイクではそうは行かない。

  直接政治と間接政治を比較した場合直接政治はバイク、間接政治は馬に例えられる。
乗り手は国民である。
国民が高度な政治知識と判断力/先見性を持っているのならば直接政治が理想的であろう。
しかし、現状そうではないし、将来的に過半数の国民がそこまでのレベルに達することはまずあり得ない。
であれば、馬を利用することにしその馬をきちんと訓練するのがいいのではないか?
つまり、間接政治という制度自体はそのまま残し、細かい制度改革や政治家の質を上げるという方策を採るべきだと考える。餅は餅屋というわけ。
以下、その具体的方策を述べるが、一つ条件がある。
まるっきりの初心者がいきなり馬で荒れ地を行こうとすれば、落馬したり馬が勝手に好きな方向に進んでしまったりして目的の方向には当然向かえないであろう。
馬に乗るにしても乗り手に最低限の技術は必要であるように、間接政治でも国民に求めるレベルがある。
以降では、国民がある程度の政治的知識と、積極的に政治に参加しようと言う姿勢を持っていると言うことを前提として書く。(どうすればそうなるかについては上の“国民意識について”及び“教育改革”を参照していただきたい)

 まず現在の政治制度の問題点をあげてみよう。

と言ったところだろうか。

 これらの問題を整理すると、結局は政治家の質が悪く国民のためを考えていないと言うような事がメインであろうと解る。
では、なぜそのようになってしまうのか。

と言うような背景が考えられる。

 では、そう言ったことを極力防止し、国民の声を政治に反映させるにはどうすればいいか?

以上のような方策で間接政治のままかなり直接政治的な特徴を持つことが出来ると思う。
ただ、上でも述べたようにこのような制度を運営するには国民の政治意識がもっと高まることが不可欠である。
(例えば、選挙活動を制限すると言うことは国民が積極的に政治家の情報を集めなくてはならないと言うことになるし、任期が短い状態で長期的な政策を展開するには国民が長い目で物を見る必要がある)


 

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